江戸時代後期の漢詩人。日根野鏡水の嗽玉唫社(そうぎょくぎんしゃ)社友。『秦里詩稿』で土佐詩壇に性霊主義を鼓吹。絵もうまく、霞山の蓮花、楠瀬大枝の桜花、秦里の梅花を三花盟友と称した。
1786(天明6) 水通町(現・高知市上町)に生まれる。字は世美(世民)、通称辰次郎。伯父の養子となり、秦泉寺東谷(現・高知市秦泉寺)で育つ。 |
1804(文化元) この頃、江戸の詩人大窪詩仏らと文通を始める。 |
1808(文化5) 江戸へ出張。江湖社・玉池精舎を訪問、詩仏、市河寛斎、菊池五山、柏木如亭、成島東岳、梁川星巌らと親交。 |
1815(文化12) 『秦里詩稿』刊。土佐へ戻る。 |
1823(文政6) 白札格に昇格。 |
1827(文政10) 清国船が浦戸に漂着。長崎への護送役となる。この時の詩が『遠游詩稿』など。 |
1829(文政12) 2月23日病死。44歳(数え)。※45歳説もあり |
<おもな著作>
漢詩集『秦里詩稿』
『詩仏先生百絶』