生来詩人的な資質の持ち主で、和臭のない中国語を使い、明の杭州に留学し、明代の純文芸的詩風と禅林四六文の作製法を伝承、帰朝し、門生に多大な影響を与えた。中世文学を代表する作家として高く評価されている。号は絶海、別に蕉堅道人・津侍者と称す。
※四六文:漢文の文体の一つ。4字または6字の句を基本とし、対句を用いて句調を整え、典故を多用した華麗な文章。中国で六朝(りくちょう)から唐にかけて流行。日本では奈良・平安時代の漢文に多く用いられた。
1336(建武3) 高知県高岡郡津野庄(現・津野町)に生まれる。 |
1351(観応2) 具足戒を受け大僧となり天龍寺に在籍、夢窓の示寂にあう。 |
1364(貞治3) 関東に行き、報恩寺の義堂に従う。 |
1376(永和2) 洪武帝に召され英武楼で命によって熊野の詩を奉り、和韻御製の詩を頂く光栄に浴した。1378年帰国。 |
1384(至徳元/元中元) 足利義満に直言してその意に逆らい摂津の銭原に隠居。翌年、義堂の忠告もあり義満は前非を悔い京都に召還。 |
1389(元中6/康応元) 細川頼之に吸江庵再興を依頼される。 |
1405(応永12) 4月5日示寂。69歳くらいか。 |
<おもな著作>
『絶海和尚語録』
「絶海国師偈頌」
「十牛頌」
詩文集『蕉堅藁』