松山生まれ。昭和6年春の紀貫之邸跡や室戸岬訪問、昭和24年の秋の「龍巻」二百号記念大会への出席を通して、県内俳句界発展の大きな刺激と影響を残した。
1874(明治7) 松山市長町新丁(現・湊町)に生まれる。本名・清。祖母の姓高浜を8歳で継ぐ。 |
1891(明治24) 5月、同級生の河東秉五郎(へいごろう、のちの碧梧桐)を介して東京の正岡子規に初めて手紙を送り、夏に帰省した子規と初めて会う。子規より虚子の号を贈られる。 |
1895(明治28) 12月、道灌山で子規に後継者となることを求められたが辞退。 |
1898(明治31) 万朝報に入社するも長期欠勤で除籍。10月「ホトトギス」を東京に移し、発行人となる。 |
1907(明治40) 小説への移行を決意。 |
1913(大正2) 碧梧桐らの新傾向に反対し俳壇復帰を決意。 |
1931(昭和6) 4月2~5日に来高、紀貫之邸跡や室戸岬などを訪問。これをきっかけに県内に俳誌「芦の芽」「龍巻」が生まれる。この年、水原秋桜子が「ホトトギス」脱退。 |
1937(昭和12) 帝国芸術院創設に際し会員に推される。 |
1949(昭和24) 10月19日から数日来高、伊野(現・いの)や佐川など訪問。 |
1959(昭和34) 4月8日、死去。85歳(満)。従三位勲一等瑞宝章を受章。 |
<おもな著作>
句集『虚子句集』
句集『六百五十句』
俳論『進むべき俳句の道』
俳論『虚子俳話』
小説『俳諧師』