近世後期の国学者、歌人。名は初め大牙、のちに虎成など。医術を桑名玄井に、国学を谷真潮に学び、真潮を通じて賀茂真淵に師事。国学を研究し、万葉集研究会を指導し、古風((いにしえぶり)の歌を詠んだ。
1765(明和2) 土佐藩士・今村勘兵衛の長男として高知城下水通町(現・高知市上町)に生まれる。 |
1766(明和3) 3月、父病死。丹次(楽の通称)幼少のため、従兄弟・庄右衛門を仲継養子に立て相続を許される。 |
1787(天明7) 6月、谷真潮還暦の賀に際し、短歌1首を贈る。 |
1799(寛政11) 2月、庄右衛門が前年に病死したため、家督を相続。 12月、京都大通院留守番役と御銀宰領を兼務することとなり、京都へ出発。 |
1801(享和元) 5月、上京中の本居宣長を訪ね、土佐で四つ仮名(ジ・ヂ・ズ・ヅ)の使い分けのなされていることを告げる。これが『玉勝間』に載せられた。 宣長の京都四条の宿の歌会に出席。「鴨河納涼」「嵯峨山松」の兼題で、楽の歌2首が秀歌に選ばれる。 9月、宣長死去。 |
1802(享和2) 7月、土佐へ帰国。 |
1803(享和3) 4月、京都御買物役・御作事役・大通院留守番など兼務のため、再度上京。 『古万葉集』を万葉集研究会の仲間と出版。 |
1804(文化元) 同僚の公金費消の罪に連座して、10月、京都藩邸より土佐に護送される。 |
1805(文化2) 詮議後、12月に名字帯刀を剥奪、四万十川以西に追放。具同村(現・四万十市具同)に住む。 翌年夏までに大浜(現・土佐清水市)に移住。持病の脚気に悩まされながら、手習い・謡曲指導・縮書作成・医事などを行う。 また、和歌の添削等にも応じた。 |
1810(文化7) 秋、痢疾を患う。 11月、大浜で死去。46歳(数え)。 |
<おもな著作>
紀行『うなびのさへづり』
『花園日記』
歌集『花園集』
歌文集『花かつま』