【原文】
世皆称怡人吾亦證迷因
烟外尤雲薄醒邊後雨頻
飛花原小歎零蝶或前身
仍抱淹々病江南春復春
病中春日 芙蓉散史
【訓読】
世は皆怡(たの)しむ人を称(たた)え、吾も亦迷因(めいいん)を證(さと)る。
烟外(えんがい) 尤(もっと)も雲薄(せま)り、醒辺(せいへん) 後に雨頻(しき)りなり。
飛花は原(もと)より小歎(しょうたん)。零蝶は或いは前身。
仍(な)お淹々(えんえん)たる病いを抱えて、江南(こうなん)春復(ま)た春。
病中春日 芙蓉散史(ふようさんし)
【大意】
世間ではみな楽しみ和らぐ人を誉め称えるが、
そうならない自分もまたこの迷いの原因はよく悟っている。
春煙のむこうにははなはだ雲が押し迫り、
目覚めた後に雨が頻りに降ってくる。
春雨に散る花びらはもとより小さい歎きであり、
花にまつわれて飛ぶ小蝶はもしかしたら私の前身かも知れない。
依然として息も絶え絶えの病いを抱えて、
この江南に去年の春についで今年の春も臥す身である。
【解説】
夢柳の晩年の作と伝えられる五言律詩です。「芙蓉散史」は夢柳の別号で、本名「富要(とみやす)」の音読み「ふよう」によります。美しくしなやかな筆致で書かれたこの詩には、春の陽気と対比的な憂いやもどかしさを読み取ることができます。
夢柳は少年時代に山内容堂からその詩才を讃えられ、長じては才媛の岸田俊子と詩の唱和をしたことでも知られます。
当時の知識人の多くがそうであったように、夢柳も漢詩文の教養がその文学に重要な役割を負っていました。彼の政治小説『鮮血(ちしお)の花』や『憂き世の涕涙(なみだ)』などには、漢詩文の引用を使い情景描写する手法が確認できます。夢柳にとって、漢詩文は心情を表現しやすいものであったのでしょう。
夢柳の漢詩には、時勢を憂い悲憤慷慨するものが多く見られます。政府の弾圧が激しくなる中、夢柳に残された場は文学でした。政治小説同様、漢詩は弾圧で散った志士たちの志を継ぎ、広く伝える手段でもあったのでしょう。
それを踏まえて「病中春日」を読むと、病んだ夢柳の抱えていた憂いやもどかしさをより深く感じ取れるように思います。